水村美苗さんの本は、「続 明暗」、「私小説」、と読んで、文体の緻密さとその手法には感心したものの、ストーリーには印象がなかった。。。というと失礼にあたるのは承知なのだけど、決して面白くて続きが読みたくて仕方がなくなるというストーリー構成をする作家さんではないです。 しかし、なんというか、通好みの寡作な作家で、本が出版されるとあちこちでよい書評がでるため、ミーハーな私はつい手が出てしまう。というわけで、在米中に出版された「本格小説」は買っていないけれど、今回の「日本語が亡びるとき」は海部美知さんのエントリーを見て買ってしまった。この本、梅田望夫さんと小飼弾さんがブログで大絶賛したことで一時話題の本となって、アマゾンでは予約が殺到したらしいですね。 しかし、これがまた、一読しただけで理解できるような本ではないんですよ。主張とそれを裏付ける事実で構成されるアメリカの「論文もしくは主張のあるエッセイ」に対抗するかのような、確信犯的に「ディテールの積み上げ、積み上げで核心に迫る」という日本的?話法。 「センセーショナルなタイトルでつっている」という書評をみかけたのだけれど、それはかなり的外れだと思う。 著者の水村さんは真剣に真剣に、日本語が滅びる時を懸念している。それはとてもよく伝わってきます。 ただ、それは私たちが日常的にしゃべり、書いている「口語日本語」ではなくて、「叡智を伝承する書き言葉としての日本語」が滅びる、という意味なのです。 彼女の緻密で繊細なディテールを取っ払って僭越ながら私のことはで説明すると、つまりは、「知を追い求める人」は英語で読み書きをする>「認められる」ためには英語で書きものをしなくてはいけなくなる>「知を追い求める人」が読みたいものは母国語ではなくなり、すべての知が英語の書物に集約されてしまう>母国語は「レベルの低い」情報を媒体だけの存在になり下がる=日本語が滅びる ということ、とここでは定義されているのでした。 最初は、何が問題なのかあまりピンとこなかったんですね。もちろん私は日本人なので、日本語が滅びたらのは悲しい。でも、あと200年くらいたって、多少へんてこな未来日本語がよまれ、話されていても、まあ、仕方がないかな、とは思っている。きっと私の言葉遣いなんかも、私の曾祖父母あたりがきいたら「まったく。。。」ということでしょう。 この本でいうところの「人類の叡智」のうち、数式だの法則だの論知だの、を伝承していく言葉は、すでに英語なんですよね。先日、イギリスであった学者の卵である友人は、寒そうに肩をすくめながら「僕海外なんてほんとに興味なかったから、住むなんて考えたことなかったんだけど、どうしてもレベルの高い研究をしたければ海外の大学院にいくしかないし、認められたければ英語で論文を書くしかないんだよね」と、ぼそぼそと言っていました。おそらく、今後そういう分野では、「叡智」と呼ぶにふさわしいものは、英語でしか残っていかなくなるのでしょう。 彼のように、「世界でもトップレベルの研究を」というほど志の高くない私でも、日本に帰ってきた今だって、結局、「知る」ため、「仕事をする」ためには英語を大量に読み、かかざるをえません。日本のことを書いてあるもの以外は、英語のメディアのほうがレベルが高いのでそちらを読む、もしくは日本語で情報をサッピングしても、かならず裏は英語の元情報で取る、というのが気づけば自分の情報の使い方になっていますし、関係者が多い仕事はどうしても海外が絡まざるを得ないため、関係者全員の共通語である英語に情報が収れんしていくのだな、と感じています。まあ、私の話は叡智というより便利のレベル、次元がだいぶ低い話ですが。。。 ただ、やっぱり、文学はちがうんですね。論理も経済学もファイナンスも、別に英語で語られたって日本語で語られたって大差はないですが、水村さんいわく、夏目漱石の素晴らしさはどうも英語ではまったくわからないということ。「「三四郎」がロングテールの尻尾の中にしか存在しない小説になったらあまりにも悲しい」というのは彼女の個人的な趣味の問題もある気はするけれど、確かに、もったいないのは確かです。 私は、知るためには英語をよむけれど、楽しみのためには日本語を読みたいし、いつもではなくても「格調高い」日本語も楽しみたい、とおもう。けれど、それは、私たちの世代だからなのでしょうか。どうやら、そうらしいのです。 日本語は面白い、奥の深い言葉です。そして、ニュアンス、というものが多く含まれていて、それは、漢字・ひらがな・カタカナの使い分け、しいてはカタカナの半角文字で軽薄さを表すという最近のテクニック?まで、私にとってはもっとも心地よく、すんなり入ってくる文字です。こんな長いブログをかけるのも、ひとさまが書いたものを楽しく読めるのも、これがすべて日本語だからです。ただそれも、私が子供のころ、非常に本をよく読む子供で、いわゆる名作とされる近代文学もかなり子供のころに読破しているから、なのかもしれません。 というわけで、水村さんが最後におっしゃっている、「日本の近代文学を小学生に読ませるべき」という主張は、実は理にかなっているような気がしてきました。日本語が一番完成度が高かった、日本中の英知が海外から得た「叡智」をちりばめて書き連ねた時代の「高いレベル」の日本語を、宝物のように伝承していく、そういう日本であればいいと思います。 この本の素晴らしいのは、彼女の言っていることに賛同するかしないかではなく、普段ぼんやりと感じていた『言葉』という問題に光をあて、自分で考える機会をくれたこと、かもしれません。という意味合いでは、梅田さんのいう「すべての日本人が読むべき」という評もあながち大げさではないかもしれません。

コメント